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2024/04/25 13:11 |
少女マンガは面白い
久々の本、というかマンガの話題です。

先日、『戦後少女マンガ史』米沢嘉博著(ちくま文庫)というものを読みました。
もともと1980年頃に出版された本らしく、今回27年ぶりくらいに、ちくま文庫から再発刊されたようです。
筆者の米沢氏は、昨秋急逝されてしまったのですが、「コミックマーケット(略称コミケ)」という同人誌の即売などで有名な、巨大イベントを運営されていた方だそうです。

この本は、少女マンガが、まだ漫画の体裁をとる前の、明治期の少女雑誌の記述から始まり、最終的には1980年までの少女マンガまでが網羅された、通史の形態をとる、唯一の著作だそうです。

出てくる漫画のタイトルを見るだけでも、「よくこんなもん調べたなぁ・・・・」と、ただただ頭が下がるばかり。
米沢氏が触れなければ、そのまま時の彼方に置いていかれてしまったであろうと思われる、聞いたこともないようなタイトルがズラッと並びます。

「知らないタイトルばっかりじゃ、面白くないんじゃない?」
そう思われる方も多いかと思います。
もちろん私も、「う~ん、買ったはいいが、ほとんど知らん漫画しか載っとらん・・・」と思ったのですが、読み始めてみると、コレが面白いのです。

少女マンガの黎明期には、手塚治虫を始め、白土三平や横山光輝、赤塚富士夫、石森章太郎といった、すごい顔ぶれが少女マンガ界をリードしていたということが、まず最初の「へぇ~」。
(言われてみれば、手塚治虫では『リボンの騎士』、横山光輝では『魔法使いサリー』なんかが有名ですね。)

次の「へぇ~」は、少女マンガの作風やテーマの変化でした。

当初は母と子の愛Σ(゜д゜|||)が核となるテーマであったのが、時代が進むに従い、友情が取り上げられ、さらには外国への憧れから、ホームコメディやバレエ漫画が登場。
日本が一億総中流時代になると、貧乏が姿を消したのと引き換えに、誰もが学校へ通うようになった時代背景を映し出すように、学園が舞台に使われるようになります。

そして、黎明期には母と子の涙の再会こそが「幸せ」であった少女マンガは、少女達が物質的に恵まれるようになってきた昭和40年辺りから、その「幸せ」を恋の成就に求めるようになっていったのだそうです。

やっぱりマンガって、世相を反映しているんだなぁと本当に納得。

しかし、1980年頃のマンガって、私はほとんど読んだことがないんですよね。
私がマンガを読み始めたのって、85年頃だったと思います。
もっと知っているマンガがあれば、より楽しめたのかなと残念ですが、逆に、この本によって「やっぱり読んでみよう」と思ったマンガがいくつかあったわけでして。


今日ご紹介するのは、『ポーの一族』萩尾望都著(小学館文庫)。

少女マンガ史上の最高傑作と名高い、さすがに私も当然その存在は知っていたマンガです。

バンパネラ(いわゆる吸血鬼『バンパイア』のことです。萩尾氏が間違えて使ってしまったのが、定着してしまったということみたいです)である「ポー一族」の一人、「エドガー」という少年を中心とする、1740年から1976年までの、約200年間にもわたる、壮大な物語です。

このマンガの存在を知ってから、本当に大分経ちますが(汗)、そして何度も何度も読もうと思っていたのですが、ようやく読みました(´Д`;)ヾ

実は、単行本で多分第一巻だけは、大昔に読んだことがあったと思うのですが、今回読んでみて、主要キャラの一人である、エドガーの妹「メリーベル」が、イキナリ最初に死んだ(というかバンパネラなので『消滅』。銀の杭や銀の銃弾で撃たれると、一瞬にして灰のようになって消えてしまうのです)ことに面食らってしまい・・・・。

「メリーベルってこんなに早く死んだっけ????」

しかし、私の記憶違いではなかったようで、今回読んだのは、マンガ文庫だったのですが、単行本と文庫とでは話の収録順が異なっていたのですね~。

メリーベルの死が当初の並びで置かれていたなら、一見幸せそうな姿から、「永遠の少女」というメリーベルの儚げな美少女振りが、まず読者の心に残ったでしょうし、私の読んだマンガ文庫の並びであれば、もう存在しない、エドガーの愛する只一人の少女であるという面がクローズアップされることになります。

どの話から読んでも楽しめる、多面的で計算しつくされた物語でもあるわけです。

また、いくつかのサイトにありますが、物語の年表を書けてしまうという緻密な構成にも、思わず感動。

しかしこのマンガの魅力は、しっかりとした時代考証に裏打ちされた、緻密な構成だけではなく、「バンパネラ」という、「時の止まってしまった」悲劇を生きるしかない一族の悲哀・苦悩を浮かび上がらせた点にあります。

バンパネラに血を吸われると、その人物もバンパネラになってしまう、というのは他の吸血鬼を扱った作品でも共通のモチーフですが、ポーの一族の新しさの一つは、吸血鬼が成人男性であるという従来のイメージを突き破り、10代の少年少女をその主人公に据え、周囲の人間が老いて死んでゆくのとは対照的に、いつまでも少年のままあり続ける姿を強烈に描いたことにあったのではと思います。

永遠の少年というのは、『ピーターパン』などに代表されるように、ある面では非常に憧れの対象となるわけですが、永遠の少年であり続けなければならないエドガーは、孤独を抱え込み、「死んでも形の残らない」自分、「人間でない」自分、「人間を狩らなければ生きていけない」自分、「何も生み出すことの出来ない」自分、そういった自分が何のために存在するのかを苦悩します。

それでもまだ、メリーベルがいた時には、妹を守るためという意義がありました。
しかし彼女が消滅してしまったとき、エドガーは完全な孤独と対峙することになります。
時を止めてしまったエドガーには、「時間が解決してくれる」ことなど存在しないのです。

エドガー自身、生まれついてのバンパネラではありません。
ですから、まだ人間でいた頃=明日を信じられた頃、を求めずにはいられません。
その頃の記憶は、妹のメリーベルもまた人間であった頃の、幸せな記憶です。

しかし、「ポーの一族」には、バンパネラと化してしまった存在が、もとの人間の姿に戻れる、なんていう都合のよい設定はありません。
バンパネラとなった存在には、永遠にさまよい続けるか、跡形もなく消滅してしまうか、そのどちらかしか残されていないのです。

「年をとらずに生きていけたら・・・・」、思いの深浅はあれ、誰しもが一度は考えることだと思います。
しかし、年をとらないということは、すなわち「生きていない」ということ
バンパネラたちは、鏡に映らず、体温も脈もありません。

そして「生きていない」「時の止まってしまった」孤独から逃れるために人と関わっても、当然同じ時を共有することは出来ず、またバンパネラであることがばれれば、異端視され、殺されてしまう可能性すら否定できません。

「人間でない」自分を、受け入れるしかなかったエドガーの苦悩と諦念は、涙なくしては読めません。
(いや、私は涙は流さなかったんですが・・・・・。でも心の中では泣きましたΣ(゜д゜|||)

「生と死」ってなんだろう、「時」ってなんだろう、そんな深いテーマについて考えさせてくれるマンガでした。

初出は1972年ということで、私の生まれる前に世に出ていたマンガであるにも拘らず、全く古さを感じさせないことにも驚かずにはいられませんでした。

やっぱり名作といわれるマンガは、機会を見つけて読んでみよう!と思った今日この頃なのでした。

次は『ファラオの墓』『王家の紋章』あたりかなぁ・・・・・。
でも『王家の紋章』って、連載30年、未だに続いてるんですよね。
そういや、『ガラスの仮面』(これは一応読んでます)も、30年以上続いてますね・・・。
・・・・・・完結するのか、それ自体が心配です(´Д`;)ヾ
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2007/08/30 02:48 | Comments(0) | TrackBack() | コミック・漫画・アニメ

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