忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2024/05/06 20:26 |
神童 1
先日友人から、「これを聴いてみて」と、二枚のCDを渡されました。
タイトルも曲名も、そしてヴァイオリンだということ以外は演奏者も全く分からないまま、とりあえず聴き始めました。

私が今まで聴いていたヴァイオリンとは全く違う音色で、しっかりと曲は弾けているし、テンポも崩れていないのだけれども、正直、高音部は「キーッ」という引きつれた感じがしましたし、全体的に引っ掛かりが気になったように思いました。また、何だか焦りのような、鬼気迫った感じもして。普通じゃないな、というのが第一印象でした。・・・・「あんまり巧くないよね???」という暴言まで吐いてしまいました((((゜Д゜;))))

音色が全く、本当に私が今まで聴いていたものとは明らかに違っていたんです。
実は、すっごい小さい子供が弾いているのか、と一瞬思わなくも無かったのですが、まさかね・・・と常識が働いてしまい、

この時点で、この奏者は
1.目が見えない
2.耳が聞こえない
3.義手である
という、三択のうちのどれかに該当しているのでは???
などという、まことにとんでもない感想まで抱いてしまっていたのでした・・・_| ̄|○

さらに「普通のクラシック演奏者だよ」と言われた後でも、懲りずに「ジプシーヴァイオリン!?」とか、どこまでも見当違いの感想を述べていた私・・・。
いや、速いテンポをグイグイこなしている感じから、ジプシーヴァイオリンを連想してしまったのです・・・。

二回目以降は、耳にも音色が慣れてきたのか、旋律がはっきりと際立った演奏で、やや攻撃的な感じはそれでも感じられはしたのですが、非常に印象に残る演奏だという感想を持ちました。

さて、この何の前知識もないまま聴かされたCDは、その昔「神童」と言われた渡辺茂夫さんという悲劇のヴァイオリニストの、貴重な録音でした。

私が高音部の音色が気になったのは、現在の主流と比較すると、やや力を強く加える奏法であった事に加え、一つにはこの方の愛用していた楽器がハンガリー製の無銘のものであったことも原因だったかもしれません。
いまや人類の至宝ともいえる、ストラディバリやグァルネリなどの名だたる名器での演奏を聴いてみたかったと思います。
また、録音が(手元にデータがないので何ともいえませんが)恐らく、12~16歳の間のものであるということらしいので、ひょっとしたら、一部フルサイズではない分数楽器によるものも含まれていたのかもしれません。
(ヴァイオリンには、小さい子供でも演奏できるように、二分の一・四分の一などの『分数楽器』といわれる小さい楽器が存在します。当然小さいと音量や音色も、フルサイズより劣ったものになってしまいます)

と、色々言い訳を並べましたが、私の聴く耳が無かったというだけのことですね・・・・。

渡辺茂夫さんは、戦後の混乱期の中に、突如現われたまさしく天才でした。
1941年生まれ、わずか7歳でデビュー。この時に演奏したのはパガニーニとメンデルスゾーンの協奏曲。(メンデルスゾーンの協奏曲は、通称『メンコン』ともいわれる、ヴァイオリニストならば誰もが演奏したいと思うような重要レパートリーで、フィギュアの安藤美姫選手が、今回の世界フィギュアのフリーで用いたのもこの曲です)

養父の季彦さんがヴァイオリニストだったこともあり、かなりのスパルタ教育を施されたようです。その甲斐あって、茂夫さんは「神童」の名をほしいままにします。演奏も、「子供にしては良く弾けている」というレヴェルのものではなく、まさに一人のヴァイオリニストとして完成されたものであったようです。

その証拠として、茂夫少年は20世紀最高のヴァイオリニストである、ヤッシャ・ハイフェッツに見出されます。この時ハイフェッツは茂夫少年を「50年に一人」「100年に一人」の天才と言ったと流布されています。しかし一説には、自己を史上最高のヴァイオリニストと自負し、非常にプライドが高く他人を決してほめる事のなかった人であるゆえ、実際には「25年に一人の天才」という表現だったのではなかったかとも考えられているそうです。

しかし、いずれにしてもハイフェッツは、茂夫少年の演奏をたったワンフレーズ聴いただけで「25年に一人の天才」である事を見抜き、当時世界最高の教授として有名であったガラミアンのもと、ジュリアード音楽院で修練する事を薦めました。
そして、ハイフェッツの強い推薦により、茂夫少年は、ジュリアード音楽院への無試験の入学が認められ、それだけではなく最年少での授業料全額免除のスカラシップまで獲得したのです。
この時茂夫少年は13歳。

もちろん、この時点で、日本人音楽家は何名も欧米への留学を果たしていますが、茂夫少年のように、中学2年という若さで留学を果たした人はいませんでした。
しかも、まだ昭和三十年代です。現在のように誰もが海外へ渡航できるわけでもなく、円の国外持ち出しさえ禁止されていた時代です。それに加え、茂夫少年は満足に英語を理解できる状態ではありませんでした。非常に不自由な制約を課された上での留学は、世界的ヴァイオリニストになるためには避けられないことだったとはいえ、ある意味ギャンブルのような決断だったと思います。

しかし、茂夫少年はアメリカへと旅立ちました。
言葉も満足に分からないまま、たった一人で13歳の少年は異国の地へと降り立ったのです。

東洋から来た、上品な容姿と素晴しいテクニックを持つ少年は、アメリカでも歓喜をもって迎えられました。
誰よりも優れたその演奏は、聴く人のすべてを魅了してやまなかったそうです。

そして、ジュリアードでの勉強が始まりました。
教授のガラミアンは、誰もが世界一と認める名教師でしたが、茂夫少年の奏法には否定的でした。しかし、ガラミアンもまた、茂夫少年の才能は大いに認めるところで、一時期は自宅に茂夫少年をホームステイさせるほどの入れ込みようでした。

しかし、茂夫少年の奏法はすでに13歳にして完成されたもので、自らの演奏法でがっちりと固めさせる事を好むガラミアンとは、相容れなかったようです。ガラミアン自身は奏法の矯正(強制!?)を良かれと思ってしていたのですが、茂夫少年は、奏法を否定される事によって、自分自身をも否定されたような気持ちになってしまったのか、徐々に情緒不安定さが目立ち始めます。

他にも、好奇心旺盛な思春期に、音楽以外の勉強を出来るような環境ではなかった事、満足なコミュニケーションをとることが出来ず、人間関係をうまく築けなかった事、など多くの不幸が重なってしまった事は否定できないでしょう。

1957年11月3日、16歳の渡辺茂夫さんは、大量の睡眠薬を飲んで自殺を図りました
薬を嚥下してから治療が開始されるまでに、7時間ほどの時間がたっていたと見られ、薬の大部分は吸収されてしまった後でした。
茂夫さんが本当に自殺を図ったのか、服用量を間違えた事故だったのか、あるいは未成年には入手不可能な薬物であったことから、彼の才能を妬んだ何者かによる謀殺だったのではないか、など様々な憶測が乱れ飛びましたが、真相は謎のままです。

茂夫さんは、一命を取り留めました。
しかし、薬の作用で高熱の続いた脳組織は破壊されてしまい、ヴァイオリンの演奏はもちろん、日常生活さえままならない身体になってしまったのです。

「天上の音楽」とまで言われ、世界最高のヴァイオリニストという地位さえも、すでに夢ではなかった渡辺茂夫さんの演奏家としての人生は、わずか16年で閉ざされてしまったのです。

【次回に続きます】
PR

2007/03/26 01:18 | Comments(0) | TrackBack() | 音楽

トラックバック

トラックバックURL:

コメント

コメントを投稿する






Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字 (絵文字)



<<神童 2 | HOME | スペースファンタジー!?>>
忍者ブログ[PR]