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2024/05/10 08:41 |
大誤解(´Д`;)ヾ
『アラビアンナイト-文明のはざまに生まれた物語』 西尾哲夫著 (岩波新書)
『新アラビアンナイト』 清水義範著 (集英社文庫)

を読みました。

著者・出版社を見ていただければお分かりのように、前者はアラビアンナイトを歴史的視点から考察した評論文、後者はアラビアンナイト・イスラム世界をモチーフにした創作です。

前者は、アラビアンナイトについて抱いていたあやふやなイメージが一新されてしまう、非常に興味深く、新たな発見に溢れた好著です。
アラビアンナイトが、これほどまでに研究されている文学なのか、という点にも驚きますし、その成立過程などは本当に思いもよらず、新鮮でした。

「アラビアンナイト」は、別名『千夜一夜物語』とも言われる、中世イスラム世界で生まれ、近世ヨーロッパで再発見された物語群です。

もともとはアラビアでは、書籍として以外に、コーヒーハウスや街角などで職業的語り手によっても語られていたらしいのですが、次第に忘れ去られ、オリエンタリズムが流行していたヨーロッパで紹介されるとともに、その存在が再び表舞台に現われたとのことで、その再発見の経緯から、アラビアンナイトは本来のものとは大きく異なった姿を取るようになったと考えられているそうです。

一般に「アラビアンナイトの物語といえば?」という質問には、「アリババと40人の盗賊」とか「シンドバットの冒険」とか「アラジンと魔法のランプ」などの答えが上がると思われますが、実はこれらの物語はいずれも、もともとはアラビアンナイトの話ではなかったと考えられていますΣ(゜д゜|||)!

シンドバットは、アラビアンナイトとは別の体系の物語であることがほぼ証明されているようですし、他の二作もアラビア語版の中には見つかっていないということです。

恐らくヨーロッパに紹介される際にどこかから混入したり、新たな写本が見つかったり、場合によっては偽の写本を原典として翻訳したために新しい話が追加されたりなどして出来上がった形が広く認知されてしまったのでしょう。
このような事実に、現在のアラビアンナイトは本来のものとは大きく異なった形を取っているであろう、と考えられる根拠があるわけです。


さて、アラビアンナイトといえば、妻の不貞に激怒した王が女性不信になり、毎夜処女を召して首を
落として殺していたが、大臣の娘シェヘラザードが王の下に赴くことを志願し、毎夜毎夜面白おかしい話を王に聞かせ、続きが気になってシェヘラザードを殺せないでいるうちに、とうとう改心して女性を殺さなくなった(のでは?)、という外枠を持つ物語です。

このシェヘラザードの語った期間が「千夜一夜」であると思われているわけですが、実際の話数は、一話が長くて何夜にも区切ったりしている部分もあるのですが、最初にヨーロッパに紹介された写本(ガラン写本といいます)でいいますと、282夜分、話数にして40話という数だったそうです。

写本の呼称にもその名の使用されているガランですが、やはり彼も自分が見つけた写本は、長大な物語の一部分に過ぎないと考えており、完全な形を探していたそうです。

しかし、現在の段階で「最終形態」と考えられているのは、主にイギリス人によって写本探索を通して形成された、究極の寄せ集め本である「カルカッタ第二版」といわれるもので、最初期の本当に後世による手を加えられていない形には、ガラン写本の方がよっぽど近いだろうと考えられているようです。
(ただ、ガラン写本も含め、あらゆる写本について、どこまで本物なのかは、完全には解明し切れていない部分があるようです)


さて、先ほどシェヘラザードの語りにより、王は改心し、女性を殺さなくなった「のでは?」と、括弧書きを付けたわけですが・・・・。

実は、シェヘラザードがどうなったかというのは、決着を見ていないと言うのが本当のところなのですΣ(゜д゜|||)
写本により、王が途中で改心したとか、王は処刑しようとしたが、シェヘラザードが王との間に出来た三人の子を連れて命乞いをしたとか、シェヘラザードの英知に感心して処刑を取りやめたとか、シェヘラザードが助かったことは一応一致しているのですが、本当のところは謎に包まれているようです。

アラビアンナイトが口承文学の形態を少なからず持っている以上、「本当で唯一の形」を求めること自体、ナンセンスなのかな、と思います。

ですから筆者は、アラビアンナイトは、中東で生まれ、ヨーロッパ人のオリエンタリズム趣味のフィルターを通されて、現在の形態に落ち着いたという経緯から、「文明のはざまに生まれた物語」というサブタイトルを付けているわけですね。


で、清水義範氏の著作ですが。

私は最初この本は、アラビアンナイトにある話を、清水テイストに翻案・脚色した作品集だと思っていました

が、清水氏の完全なオリジナルとのことで、改めて「巧い人だッ!」と感動してしまいました。
(途中の話辺りから、冒頭に薀蓄が述べられるようになっていたので、『あ、創作か』と気付いたわけですが。その口調が、いかにも「清水節」だったので。)

王族だけではなく、一般庶民を主人公にした話が収録されているのですが、程よい長さ、バラエティに富んだ内容に加え、現代人の私たちにも親しみやすいような形でアラビア圏の風俗が取り入れられたりしていて、本家アラビアンナイトで挫折した人でも、面白く読むことが出来ます
(ちなみに私は、本家には手すら付けたことがありませんが・・・)

清水義範氏は「パスティーシュ小説」という、恐らく清水氏にしか書くことのできないジャンルの小説の第一人者(っていうか、一人しかいないのにこういう表現ができるのか分かりませんが)でして、定義が難しいので、多少の語弊を承知の上で申しますと、文体だけでなく内容・素材など、全てにおいて本物であるかのように創作された小説のことをこのように言います。

その中には、ひねりやもじりや笑いなんかも必然的に入ってくるわけですが、原典を笑い飛ばすことを目的として揶揄するパロディとは、ですから根本的に異なる小説です。

最近の著作にはパスティーシュ感がそれほどないのですが、初期の作品には抱腹絶倒の名作が目白押しです。(いや、最近のものも面白いのですが。)

オススメは『国語入試問題必勝法』『永遠のジャック&ベティ』(いずれも講談社文庫)。

内容を書くと、どうしても面白さの核心部分に触れなくてはならないので割愛しますが、短編集なので読みやすいですし、「どうしてこんなことを思いつくの?」と目からウロコが落ちることも間違いありません。
そして、笑い転げられること、コレも間違いありません((((゜Д゜;))))


さて、タイトルの「大誤解」ですが。
私、『新 アラビアンナイト』を読むまで、ベリーダンスはインドの古典芸能だと信じ込んでいました・・・
(そういうことを、このブログで過去に書いております・・・_| ̄|○)

ベリーダンスはアラビアンナイトのイメージです、なんてことも書いているわけで、ちょっと考えれば分かることなのに、どうしてインドのものだと信じ込んでいたのかは定かではありませんが(;´д⊂)

ベリーダンスは、エジプト発祥のものと、トルコなどのイスラム圏を発祥とするものに大別され、後者はロマ(昔で言うジプシー)のダンスなどの要素も取り入れられ、現在の形に発展してきたそうです。

ちなみにインドはヒンズー教圏。
イスラム教徒もいますが、完全なる少数派です。

インドでは全く踊られていない、ということもないとは思いますが、インドの古典芸能といえるものではない、ということだけは間違いないようです・・・・(´Д`;)ヾ

失礼致しました・・・・(涙)
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2007/09/14 03:46 | Comments(0) | TrackBack() |
拝啓 横溝先生
私が先生の著作を文字通り初めて目にしたのは、まだ小学校低学年の時でした。

家の本棚に仕舞われていた『本陣殺人事件』と書かれた背表紙、母親の本だったのですが、他に並べられていた本の著者が「アガサ・クリスティ」「ヴァン・ダイン」とカタカナばかりであったのに対し、その本だけは「横溝正史」と、明らかに日本人である名前が書かれていたので、とても印象に残っているのです。

しかしその当時は、「よこなんとかせいし?」と、「溝」の読み方すら分からない、まして活字の小さな文庫本など手にするはずもない年頃でしたから、控えめに印刷された『本陣殺人事件』という文字の形だけが、私の脳裏にインプットされていたのでした。

小学校も高学年になると、私は家にある自分の本を繰り返し読むことにも飽きてしまいました。
そんな時、冊数が多すぎて本棚に仕舞う気もなかった為でしょうか、母親が幾つもの紙袋に入れて押入れに放り込んでいた「西村京太郎」氏の著作を発見し、読み漁るようになりました。

一年ほどかけて、何十冊もの西村氏の著作を読破した頃には、私はすっかり推理小説の虜になっていました。
シャーロック・ホームズを読み始めたのも、恐らくこの頃だったと思います。

次に目に入ったのは、昔から背表紙だけは眺め続けていた、そしてテレビなどの影響でしょうか、いつしか彼女が生み出した名探偵であるエルキュール・ポアロミス・マープルの存在も知るようになっていた「アガサ・クリスティ」の本でした。

『アクロイド殺し』『三幕の殺人』『復讐の女神』『青列車の謎』『鏡は横にひび割れて』、そしていきなりポアロ最後の事件である『カーテン』というラインナップでした。

『アクロイド殺し』と『カーテン』は、代表作・話題作という点でうなずけます。
『カーテン』は、文庫ではなく単行本であったことも鮮明に記憶しています。
恐らく、当時かなり話題になった本なのでしょう。

しかし、それ以外の選択は、なぜ『そして誰もいなくなった』とか『オリエント急行の殺人』とか『ABC殺人事件』といった、有名な代表作ではなかったのか、未だに母親の嗜好が理解できておりません
母がクリスティの大ファンで、敢えて渋い作品を残していたのかとも考えましたが、『三幕の悲劇という、出版社が異なるために微妙にタイトルが違っているだけ、つまりは『三幕の殺人』と全く同じ内容の本をもう一冊購入していたことを鑑みると、決してそのようなことではなかったと断言できます。

とまあ、それはさておき、私はこのクリスティの六冊を当然読みました。
『アクロイド殺し』『三幕の殺人』『カーテン』の三作は、記憶の鮮明さの度合いはそれぞれ異なりますが、どこかしらにインパクトを受けたという点で、今でもそれなりに内容を覚えています。

残りの三作は、全く記憶に残っておりませんが、いずれにしても「クリスティは面白い」と印象付けられましたので、この時から数年の後、私はクリスティの著作の大部分を読破することになります。

ですが、当時は本を満足に購入できるほどの小遣いをもらっておりませんでしたので、家にある本を読み漁るしかなく、クリスティが間もなく尽きてしまった時、次に目に入ったのが、横溝先生の『本陣殺人事件』でございました

私は母に尋ねました。
そうそう、この頃は私も中学一年生でしたから、さすがに先生のお名前の読み方が「よこみぞせいし」である、ということくらいは理解しておりました

「お母さん、横溝正史ってどんなんなん?」

私はこの時、先生のお作を拝読する気で一杯でした。
しかし母の答えは、

「横溝正史は怖いで~((((゜Д゜;)))) お母さんアレ読んだ時、あまりに怖くて、背中を壁にピッタリくつけてたくらい。夜も怖くて寝れなかったし」

という、中学一年生の少女を、先生の作品から遠ざけるのに十分なものだったのです。

私は母の言葉を真に受けて『本陣殺人事件』を諦め、「ヴァン・ダイン」に手を伸ばすことになりました。
しかし、本屋で先生の著作をお見かけすることはもちろんございましたので、その際、先生の作品の中に『八つ墓村』というものがあることを知ったのです。

さて、これが先生から遠ざかる、第二の要因となってしまいました。

少し話はさかのぼります。
私が小学校2年生の頃、とても仲の良かった友人の家には、ご両親が集めたというマンガが山のようにありました。
しかしご両親のご趣味が、今思えばどうも、怪奇・ホラーマンガに集中していたように思われます。
ビクビクしながらページをめくっていた記憶があるのですが、その中に、どなたの作画かは全く記憶に残っておりませんが、私を心底から怯えさせた一冊がありました。

おどろおどろしい劇画調の絵に、ザンバラ髪の落ち武者の生首、美しい女性の首に刺さった小判今でも目に浮かぶほどでございます

そう、そのマンガのタイトルこそが『八つ墓村』でございました

「あんな怖い話は一生読めないッ!!!」

小学二年生だった私には、『八つ墓村』は本格推理ではなく、怪奇モノであるという印象しか残されず、その印象を引きずっていた中学一年生の私もまた、「横溝正史は怖い」という思い込みに加え、「横溝正史はホラー作家だ」という誤った情報を上書きしてしまうことになってしまったのです。

それから十数年、さすがに先生が本格推理をものされた方だという事実だけは、その間に認識しておりましたが、古今東西、様々なミステリを読破したにも拘わらず、やはり先生の作品にだけは手を伸ばすことができませんでした。

しかし、
「横溝正史を読んでいないのに、ミステリ好きだとは言えないッ」
と、誰に言われたわけでもないのですが、日増しにその思いは強くなり、5年ほど前のことでしたでしょうか、とうとう先生のお作に挑戦してみることにしたのです。

選んだのはもちろん『本陣殺人事件』でございました。

文字通り血飛沫の飛び散る凄惨な事件でしたが、十数年にわたるミステリ漬けの成果だったのでしょうか、悲しいことに、私には母が感じたような恐怖感は全く訪れず、「いつ怖くなるのか・・・・?」と、期待と不安の入り混じった思いでページをめくっているうち、金田一探偵の活躍により、事件は解決してしまったのです

「・・・・・別に怖くないんですけど(゜▽゜;)」

しかし、この『本陣殺人事件』を読むことによって、横溝先生の作品は、確かに怪奇色や陰惨さなどが目立つけれども、それは飽くまでスパイスであって、実際の解決は合理的推理によるものであるということがハッキリし、私は十数年にわたる呪縛を解き放つことが出来たのです。

以来、先生の作品を拝読するようになりました。
今では、手に入りにくいものもありますので、まだまだ時間がかかりそうですが、いつかは全ての作品を読破したいと考えているくらいのファンです。

それにしても、先生が戦中に疎開されていたからだとは思うのですが、あのような異常な殺人事件が岡山県でばかり発生していたこと、考えるたびに岡山の方々が気の毒でなりません。
あれだけの大量殺人が身近で頻発してしまっては、おちおち夜も眠れなかったことでしょう。

実際は東京で起こった事件による被害者数の方が多いようですが、私の頭の中にはすっかり「岡山=大量殺人」というイメージが出来上がってしまっています。

さてでは、まだ村の掟や因習が色濃く残っていた頃の岡山県を想像しながら、先生の著作を読み返し、またその世界観に浸ってこようと思います。

最後に。
横溝先生、貴方は本当に偉大な方です

2007/09/07 03:17 | Comments(1) | TrackBack() |
裁判員制度を考える
平成21年5月までに、裁判員制度が始まります。

「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下『裁判員法』)が成立し、「成立後5年以内に施行される」という期限がありますので、一番遅くても、前記の期日までに開始されるということです。

さて私は、以前ブログ内で「裁判員制度に興味があります」という発言を行いました。
その時は「ふ~ん、裁判員制度なんて法律が成立してたんだ。どんなもんなのかな」くらいの気持・理解しかもっておらず、完全に興味本位の発言でした。

あれから、本当にちょろっとなので偉そうなことは言えないのですが、裁判員制度について一応勉強してみました。

で、今の私の中での結論ですが、「裁判員制度は絶対に認めてはならない!」、コレに尽きます。

以下に、裁判員制度の問題点をホンの一部だけ、挙げてみたいと思います。
本当に、ホンの一部ですよーーーーーッ(この量で(笑)

まず、奇しくも私自身が「裁判員法」の成立そのものを知らなかったように、この法律は一部の国民(具体的には『司法制度改革審議会』)の意見を基に、あれよあれよという間に成立してしまった国民不在の法律です。

「裁判員制度」が大きく話題になったのは、すでに裁判員法が成立してしまってからのことです。

審議会によれば、「裁判内容に健全な社会常識が反映されるようになる」とのことですが、どうもコレは、「裁判官は常識を知らない人が多いので、そんな人間に裁判を一任している今の裁判制度は間違っている」ということらしいです。

確かに、裁判の原告・被告人ともに、裁判官のようないわゆる「学歴・職業エリート」は少ないでしょうし、裁判官という職業に就いている人自体が少数なのですから、裁判官が「一般の人々」の事情に疎く、原告や被告人の心情・状況が理解できないという論旨も一理あるかもしれません。

しかし、裁判員が裁くのは、「法が定めている刑の最高が、死刑、無期懲役、無期禁固に当たる」犯罪ですから、そんな重大犯罪に対する「一般的な常識」を、裁判員が持っているとは到底考えられません。
むしろ、日々の業務の中で、これらの犯罪に常に対峙している裁判官の方が、どうみたってまともな判断を下せるはずです。

ではここで、裁判員制度がどのようなものなのか、簡単に整理してみましょう~。

まず裁判員の人数ですが、一つの事件に対して「裁判官3人、裁判員6人」の計9人で審理にあたることになります。
裁判員は、事件ごとに選ばれるのですが、担当となった事件には、最初から最後まで関わらなくてはいけません。
裁判官および裁判員は、被告人が有罪か無罪か、そして有罪の場合、その量刑はどれだけかを判断します。

ここで当然、有罪か無罪か意見の割れる場合が出てきます。
この場合、意見が一致しない場合は、何と「多数決」で決定されますΣ(゜д゜|||)
(絶対に全員一致の結論が必要である陪審制と、ココが一番違うと思われます。)

但し、被告人を有罪とする場合は最低でも、裁判官一名・裁判員一名の意見が含まれていなくてはなりません
裁判官のグループと裁判員のグループとで完全に意見が分かれてしまった場合には、上記の条件を満たしていないということで、被告人は無罪となります。
一方、被告人が有罪となる場合は、有罪の意見が過半数の5人、かつその5人の中には裁判官・裁判員の両者が含まれていなくてはならないということになります。

まあ一見すると「・・・・そんなもんか?」とも思ってしまいそうなシステムですが、仮に次のような場合を想定してみましょう。

有罪意見=裁判官一名・裁判員四名
無罪意見=裁判官二名・裁判員二名

すると、上記の条件に従えば、被告人は有罪になるわけですが、裁判と法律のプロは過半数が「無罪」だと判断しているわけですよね。
プロとアマの意見を、全く同じように扱うこの方法、どうなんでしょうか???
このパターンって(無罪と有罪が逆でも同じことですが)、いわゆる「誤審」の可能性、結構ありそうな気がしませんか・・・・?


また別の側面から、この裁判員制度の問題点を考えて見ましょう。
まず、どういう人が裁判員に選ばれるか分からないという点が挙げられます。

選考方法ってたって、結局「クジ」ですからね!Σ(゜д゜|||)
そりゃ前科があるとか、義務教育を終了していないとか、そういう欠格事由がある人は、選ばれません。
また、面接の結果、裁判長や弁護人、検察官が「外したい」と思った人も選ばれません。

でもね、原則としては、普通に社会にいる人で義務教育を終えている成人であれば、誰もが裁判員をさせられる可能性があるってことですからね・・・・。
そりゃ、裁判官もタジタジの素晴しい人もいるでしょうが、もう誰が見てもどうしようもない人が選ばれる可能性だって、同じくらい、いやむしろそれ以上にあるわけです。

そんな人に裁かれる被告人も(もとは自分が犯罪を犯したとはいえ)気の毒ですし、それが冤罪だったら、気の毒なんてレベルでは、とてもじゃないけど済ませられない話です!!ヽ(`Д´)ノ

さらに選ばれるかもしれない私たちの立場から考えてみても、事態は深刻です。

まず、何の縁もユカリもない人の人生を左右する大事件を、この手で裁かなくてはならないという精神的な負担。
現在の裁判員法では「人を裁く自信がないので裁判員をお断りします」というのは、原則的に辞退する事由にはなりません((((゜Д゜;))))

精神的負担といえばもう一つ。
評議内容などの一切を、たとえ家族といえど漏らしてはいけません。
ま、それは当たり前ですが、相談などの軽いものも当然ダメで、やってしまうと罰せられます
死ぬまで誰にも、裁判員としての活動内容を話すことはできないのですーーーーーーッ!!
(私だったら、絶対ムリ・・・(;´д⊂))

また対象は重大犯罪のみですから、凄惨な犯罪現場や死体の写真なんかを見なくてはならない羽目に陥るかもしれません。
・・・・・私だったら、一生夢に見そうな気がしますヽ(;´Д`)ノ
(ミステリ小説の挿絵すら、正視できないくらいです・・・ヽ(゜ー゜;)ノ


さらに、審理は当然平日の日中に行われますから、仕事のある人は仕事を休まなくてはなりません。
しかも審理は一度だけではありません。
現行の裁判でも、被告人が罪を認めている場合でも、平均4回の公判、事実認定を争っている場合(いわゆる否認事件)には平均で10回の公判が行われています。

公判の期間は短縮されるでしょうが(それはそれでまた、手抜き審理を招くと考えられるので決していいことではないのですが)、それでも裁判員は5~6回は平均して裁判所に出向かなくてはならないと考えられます。

そして恐ろしいことに、裁判員制度のもとでは、飛び飛びの期日の公判では裁判員が審理内容を忘れてしまう恐れがあるため、集中的に1~2週間の間に審理が行われると考えられていますので、その間の平日は全て潰れてしまうわけです。

フツーの一般市民に、仕事をうっちゃって一週間も二週間も他人の裁判に時間を割かせることが、現実的じゃないってことくらい、誰でも分かりそうなものですが・・・・・ヽ(`Д´)ノ

ちなみに、「仕事が忙しい」というのは、辞退事由としては認められてないんですよ~、コレが((((゜Д゜;))))

日当は上限が一万円
拘束時間によって減る場合があるそうです。(オイッヽ(`Д´)ノ

無職の人やフリーターにはいい稼ぎですが(笑)
(アメリカなどの陪審制をとっている国では、陪審員になるのは実際そのような人の比率が高いようです・・・・)

裁判員になると、長期にわたって会社を休まざるを得なかったりするのですが、会社はそれを理由としてその人を解雇できない、というのは法で定められています。
ただ、その休んでいる期間に閑職に回されちゃったりしても、その辺のフォローは皆無らしいですよ・・・・?
あぁ恐ろしいッ((((゜Д゜;))))


ということで、裁判の公正さや被告人にとっての有益性が危うくなるのはもちろん、裁判員に選ばれることによって、私たち一般国民も不利益を被ってしまうことが、お分かりいただけたかと思います。


何のために裁判員制度を取り入れたいのか、納得できる根拠が私には見えてきませんでした
海外では陪審制や参審制を取り入れている国があるから、日本でもやろうってな短絡的な決断だったとしか思えません。

一応、裁判員制度の啓蒙活動を行っている「最高裁判所」のHPのリンクを貼っておきます。
http://www.saibanin.courts.go.jp/

でもね、裁判官の人たちも、本音では裁判員制度に反対らしいですよ?
そりゃそうだろうと私も思います(´Д`;)ヾ


ちなみに日本の裁判員制度は、フランスなどで行われている参審制にかなり近いものです。

一方アメリカなどで行われている陪審制は、陪審員が決めるのは有罪か無罪かのみで、その理由もいりません。
従って、被告人が自白している場合は、その時点で有罪とみなされ、有罪か無罪かを争う必要がないので、陪審員は招集されず、裁判官による量刑判断のみが行われます。

有罪か無罪かは、事実認定によってではなく、弁護士・検察官のどちらが有能であったかというような陪審員の心証や直感で判断されることが多くなるので、誤審・冤罪が非常に多いといわれています
(しかも、市民の判断は正しいという前提に立った制度なので、一審で出た有罪・無罪の判決は、それを不服として申したてることは出来ませんッΣ(゜д゜|||))

しかしいずれにしても、歴史・伝統と国民の理解のうえに成立している制度ですから、日本の裁判員制度のように、その必要性の感じられないものではありません。



なお、今日の記事は、上記リンクHPの他、
『狂った裁判官』 井上薫著 (幻冬社新書)
『裁判員制度の正体』 西野喜一著 (講談社現代新書)
などを読んだ上での感想です。

特に後者は、様々な角度から裁判員制度を批判しているので、大変面白かったです。
私の意見も、この本によるところが大きいです。
 

2007/09/06 01:59 | Comments(0) | TrackBack() |
ミステリじゃなかったのね・・
久々に本の話題です。
最近、読書量が減っていまして・・・・。
暑くてへばってたもので、ベッドに入るととにかく爆睡だったんですね。
私の読書時間は、ほとんどが就寝前で占められていたもので。

今日取り上げる一冊目は
『富士山大噴火』 鯨統一郎著 (講談社文庫)

大分前に、私が勝手に「ミステリベストテン」という形で、面白かったミステリを列挙させていただいたことがあったのですが、鯨氏の名前は、それ以来の登場かと思います。

「ミステリベストテン」の時には、氏の衝撃のデビュー作『邪馬台国はどこですか?』という、奇想天外・ハチャメチャな歴史ミステリを簡単にご紹介させていただきました。

それ以降も、本格からメタミステリまで、幅広いミステリ小説を発表なさっていらっしゃいますので、今回の『富士山大噴火』も、ミステリ小説なのだろうと思って読み始めました

実はこの小説、『北京原人の日』(講談社文庫)という、歴史ミステリの続編なんですが、主人公の男女が同じという点を除いては、全くの無関係(笑)
前作は、北京原人の骨を巡って、第二次大戦中から現代まで、時間軸を縦横無尽に駆け巡った、結構壮大なミステリでした。

で、今回もそんな感じなのかと思いつつ、「富士山の噴火をどうやって絡ませるんだろう?」なんて興味津々で読み始めたのですが。

この本、ミステリではなく、パニック小説でしたΣ(゜д゜|||)

現代科学では不可能とされている地震予知に、在野の研究家が成功してしまうことから、この話は始まります。
しかし、その研究家にも、地震前の法則は解明できても、ナゼそのようなメカニズムになっているのかという点は分かりません。
そのため、学会からは全く相手にされませんでした。

が、説明は出来ないけれども、データ観測の結果からすれば確実に地震は起こるのです。
そして、彼女(研究家は女性です)の予知どおり、東京に震度6強の大地震が発生します。

しかし、幸いなことに、この地震での人的被害はほとんどありませんでした。

ところが、この物語の核心はここからなのですが、実はこの大地震が、富士山噴火の引き金となってしまっていたのです。

さて、どうなる・・・・?

と、これ以上は触れずにおきます(笑)

読後感としては・・・。
鯨統一郎=ミステリ作家、と思っていた私には、ちょっと拍子抜けだったといいますか・・・(´Д`;)ヾ

まあ、一応謎っぽいものは、いくつかあるんですが。
「新幹線に乗って海側を眺めていた時に見えた富士山」とか、
「恐竜はナゼ絶滅したのか」とか。
(富士山は、新幹線に乗っていると、山側に見えるはずですよね。)

これらの謎は、もちろん物語のクライマックスと関係があるので、物語にふくらみを持たせるための伏線なのですが、謎自体にはなんら意味はありません

実際に作中で富士山は記録的な大噴火をしてしまうのですが(・・・って結局バラしてますが(汗))、その噴火の際に、それまでの登場人物がどのような時間を送ったのか、とか、日本政府がどのような対処をしたのか、という時間の流れを描き出したかった小説なのかな、と思われます。

書かれている災害が空前絶後のものの割には、悲壮感はほとんどなく、結構アッサリ。
まあ、敢えて災害の細部にまでは踏み込みませんでした、ということなのかと。

それなりには面白いですが、小松左京氏の『日本沈没』のような壮大なスケールなんかを想定していると、「ミステリ小説だ」と思って読み始めて肩透かしを食らった私以上に、肩透かしを食らうことになるかと思います(;゜д゜)

結論。
鯨氏のファンが読めばよい、という小説でしょうか(´Д`;)ヾ・・・・あはは(汗)


二冊目。
今度は、ガラッと路線が変わりまして。
『音の影』 岩城宏之著 (文春文庫)

昨年の夏、74歳で惜しまれつつこの世を去った、指揮者岩城宏之氏のエッセイ集です。

私は、音楽関係、および音楽家の方の書かれた本も、ちょこっと読むわけですが(但し、ほぼ文庫と新書に限りますので、専門書はほとんど読みません。ま、読んでもわかんないですし~( ̄。 ̄)y-~~)、岩城氏のエッセイは面白さでは群を抜いていると思います。

思ったことを何にも包まず、そのまま書いちゃってるんだろうな~、と思わずにはいられない、率直な書きっぷりが好感度大。
そして、アレだけの偉大な指揮者でいらっしゃるにも拘らず、指揮者としてそれでいいのか?と素人の私でも突っ込みたくなるような、抱腹絶倒のエピソードが満載。

例えば、聴衆としてコンサート会場にいくと、音楽が始まると同時に睡魔に襲われ寝てしまうという話。
(私も先日、睡魔に負けましたが・・・(涙))
本当にすばらしい時と、あまりにもひどくて怒りを感じている時は眠らないそうで、ご本人曰く、よって寝ているときは「なかなか良い出来だった」とかΣ(゜д゜|||)

インチキ暗譜指揮者でも、適当に振っていればオーケストラが勝手に演奏してくれる、とか・・・((((゜Д゜;))))
(このインチキ暗譜指揮者が岩城氏御自身のことだとは思いませんが・・(笑))

この『音の影』は、AからZまでのイニシャルを持つ作曲家を取り上げ、その作曲家にまつわるエピソード(作曲家自身のエピソードのこともあれば、岩城氏のエピソードのこともあります)を紹介するという形式をとっているのですが、「どうしてこの人物を取り上げたのか」についても、イチイチ説明なさっていて、その説明がまた徹底的に独断的なので笑ってしまいます

舞台裏についての話も多く、また岩城氏が個人的にも親しくされていた、現代音楽の巨匠メシアンについては、かなりのページが割かれており、そのメシアン像が、かなりお茶目で魅力的なので、私も一度メシアンの曲を聴いてみようかな~、なんて思ってしまいました。

取り上げられている作曲家に対する岩城氏の愛情が一杯の好著です。
一編は非常に短いので、ちょっとした時に読むのにも向いていますから、興味のある方は是非。


さて、最近のクラシック人気は、ある程度定着したようで、本屋でもクラシック音楽をテーマにした本がたくさん売られています。

大体多いのが、「名曲ガイド」系ですね。
宇野功芳氏によるもの(色んな出版社から出ています(笑))が、一応良く売れていて有名かな、と。
この方は、「ウノ節」といわれるくらいに文体に特徴があり、(表現がかなり主観的で、華やかで流麗な演奏に対しては『チャーミング』という表現を連発します(笑))、好き嫌いもかなり激しいのですが、難しい用語などを使わずに曲や音楽家を紹介しようという姿勢が顕著で、「どのCDを聴いたらいいの?」と迷いがちな我々初心者にとっては、非常にありがたい方かと思います。

また、宇野氏とほぼ同年代の方では、黒田恭一氏も有名ですが、この方の『はじめてのクラシック』(講談社現代新書)だけは、手を出してはいけません。
あまりに薄っぺらい内容に、

「読者をバカにしてるんかーーーーーーッ!!!」

と、本を投げつけそうになったことがあります(笑)
それ以来、この方の著作は読んでいないので、他に良い本があったら(というかあるのだと思いますが)申し訳ありません_(._.)_

大御所では、昨年文化勲章を受章された、吉田秀和氏がいらっしゃいますが、ワタクシ、不勉強なもので、この方の著作は、一部分は目にしたことがあるのですが、一冊通して読んだことはありません・・・。
(硬派な文章なので、息抜きには向いてないのです・・・・)

最近では、許光俊氏なんかの名前を良く見ます。
慶応の教授ですが、この方のクラシック評論もかなり強気で独断的なので、好き嫌いは分かれるかと思いますが、面白いのではないでしょうか。
・・・ただ、権威者というか先行の評論家に対して非常な反抗心を持っているんだろうな、何もそこまでむき出しにしなくても・・・と感じさせられてしまう点、まだまだお若い感じですが。
(いや、私より上の方なのに、上から見てる感じでシツレイですが(´Д`;)ヾ)

以上は、「音楽評論家」という肩書きをもっていらっしゃる方々です。

他に、作家の石田衣良氏や、予備校講師の樋口裕一氏なんかもクラシックの本を書いてますね。
まあ、私はどちらも読む気にはなれないのですが・・・・・。

特に樋口氏のはね・・・・。
「頭の良くなるクラシック」なんていうCDもプロデュースしてらっしゃいますが。
氏の文章自体、私にはまどろっこしくて、
「『頭のいい人悪い人の話し方』なんて言ってるけど、その文章自体が頭悪そうなんじゃいッ!!」
と、まあ誠にシツレイな感想まで抱いてしまったわけでして(笑)

結論。
クラシックの入門書には、マンガ『のだめカンタービレ』が最適だと思われます(゜▽゜)

それにしても最近、結構シツレイ発言が増えてきましたね・・・(笑)
最初のうちは遠慮しながら書いてたんですけど・・・(´Д`;)ヾ

2007/09/04 02:56 | Comments(0) | TrackBack() |
これがライトノベルですかぁ。
夏休みに入りましたね~。
夏休みになりますと、各出版社から恒例の「夏の百冊」なるシリーズが発売されます。
『こころ』や『暗夜行路』のような古典的名作から、ベストセラーはもちろんのこと、出版社イチオシの作家の代表作・話題作などが目白押しです。

ま、例年そんなに代わり映えしないラインナップですけどね・・・

先日、旭屋書店をウロウロしていると、そんな「百冊コーナー」を見つけました。
(ま、探すまでもなく、目立つところに展開されてるわけですが。)
今年のラインナップはどんなんだろう・・・と表紙を追っていると、こんな帯をつけた文庫本が目に留まりました。

「これがライトノベルだ」

ほほぉ、これまた大きく出ましたね~と感心しつつ手に取ってみると、確かに私も聞いたことのある文字が並んでいました。

『涼宮ハルヒの憂鬱』 谷川流(ながる)著 角川スニーカー文庫

かなりの人気シリーズらしいです。

ところで私は、ライトノベルという単語の存在は知っていたのですが、果たしてそのジャンルがどういった小説を指すのかという、根本的な部分に関しては、完全に勝手な思い込みしかありませんでしたので、

「これを読めば分かるのか???」

という、出版社の目論見にまんまとはまったバカな消費者よろしく、つい購入してしまいました(笑)

まず、ライトノベルというジャンルの定義ですが、やはり諸説色々とあるようです。
ウィキペディアに載せられている定義を流用させていただきますと、

  • アニメ調のイラストを多用していればライトノベル
  • キャラクターを中心として作られていればライトノベル
  • 青少年(あるいは中高生)を読者層に想定して執筆されていればライトノベル
  • ライトノベルを発行しているレーベルから出ていればライトノベル
  • 作家がライトノベルを書いてればライトノベル 

    下二つの定義は、ライトノベルの定義をライトノベルという言葉を使って説明してしまっているので、典型的な循環論法になってしまってますが・・・(笑)

    まあ、私の勝手な感じからしますと、(つまり、読む前から漠然と抱いていたライトノベルに対する印象です)

    1.アニメ・マンガファンが好んで読む小説。(従来の小説と違いメディアミックスが重要な要素になっている。コミック化、映画化、アニメ化がセットになっている。)
    2.「萌え」要素のある小説。
    3.現実的な世界を舞台としているが、そこに何らかの形で異世界・異世界観が混入している小説。
    4.対象年齢が主に10代~20代前半になっている小説

    とまあ、こんな感じを抱いていました。

    ウィキによると、この印象は結構的を射ていたようですね。

    1・2は結局同じことを言っているのかもしれません。
    恐らく、ライトノベルのキャラクターというのは、人気シリーズであればまず例外なく「フィギア」になっていると思われますし、事実私も日本橋で「涼宮ハルヒ」のフィギアを見たことがあります。
    (今回本を読んで初めて、『あぁ、あれがハルヒだったのか(笑)』と気付きました。挿絵が付いてましたので。)

    3は、いわゆるハイファンタジーといわれる系統や、ハードSFといわれる系統は、原則として除かれるということですね。

    ハイファンタジーというのは、一度ここでも書いたことがありますが、広義にはトールキンの『指輪物語』を始祖とする完全異世界を設定したファンタジーのことで、狭義にはさらに「高尚な(何を高尚とするのかは難しいですが・・・)」「文学的な」「完成度の高い」といった、ファンタジーであり、かつ何らかの肯定的意義を有する作品に対して用いられる呼称です。

    具体的な特徴としては、叙事詩的であったり、神話的であったり、英雄譚であったりしますが、世界創生に関わる内容を包含しており、かつシリアス・重厚な作風を持っている点が挙げられるかと思います。

    ハードSFというのは、それが実現できるかどうかは別として、厳密な科学理論に基づいて書かれた作品のことです。またハイファンタジー同様に、シリアスなトーンで物語が進行し、大人の読書にも耐えられるだけの内容を持っている作品とも言えるでしょうか。

    例を挙げれば、ハイファンタジーは『指輪物語』の他、アメリカの作家グッドカインドによる『真実の剣』シリーズ(最近ダレ気味で読んでませんが、最初の方は本当に面白いです。ハヤカワから出てます)、また国産では(読んでませんが・・(汗))恐らく栗本薫氏の『グイン・サーガ』シリーズもこの系統ではないかと思います(でも、違うかも・・・自信なしヽ(;・ー・)ノ)。

    ハードSFは、クラークの『2001年宇宙の旅』ホーガンの『星を継ぐもの』シリーズや、またハードSFの手法を踏襲した上で、さらに思索的な面を取り入れた、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(映画「ブレードランナー」の原作です)、バラードの『結晶世界』なんてあたりが有名でしょうか。

    (一応、『グインサーガ』以外は、自分で読んだものを例に挙げました。)

    一方ライトノベルというのは、中高生が主人公となり、彼・彼女らが、異世界へと強制的に連れて行かれるという、巻き込まれ型を主流にしているように思われます
    (これも切れ切れに入ってくる情報から推測(笑))


    4については、従来青少年向けの作品は「ジュヴナイル」などと言われてきましたが、これは学校の図書室にも並べられているように、いわゆる「教育的に好ましい」作品であるという面を持っています。
    が、当然ライトノベルは、そのように「教育的に好ましい」かどうかは全く関係ありません。
    純粋にエンターテイメント小説であることが重要であると思われます。


    で、いつものように長い前書きでしたが(・_・;)
    本題の『涼宮ハルヒの憂鬱』、読んでみました

    コレ、大人気シリーズらしくて、以下溜息・退屈・消失・・・と続々出ているらしいのですが。
    あ、ちなみに「涼宮」は「すずみや」と読みます。

    「俺」の一人称で終始語られるのですが、主人公はタイトルにもある「ハルヒ」。
    ハルヒは黙っていればものすごい美少女なのですが、横暴・強引・変人という、かなり迷惑なキャラクターです。
    そのハルヒと「俺」の周りには、未来人やら宇宙人やら超能力者やらが(この話の主旨からすると必然的に)集まってきまして、世界の存亡を巡りすっちゃかめっちゃかの争いが勃発するというストーリー。

    読後の最初の印象としては、「タイトルのつけ方が巧いな」と。
    読む前は、「ヘンなタイトルだな・・・」と思っていたのですが(笑)
    ハルヒが何者なのかが明かされたときに、このタイトルの意味がかなりシックリ来ます。
    また、もともとが角川主催の「ライトノベル大賞」への応募作品だったということもあり、一冊でもそれなりに話はまとまっているな、とも思いました。

    でもですね、私には正直、入っていけない世界でございました、ハイ。
    「どこが面白いのか教えてくれ~ッ!!」
    ってな感じでしてね・・・・。

    うーん、一人称で語っているのに最後までテンポがダレないとか、そういう点は確かに審査員の皆様が激賞されたポイントとして納得できます。
    小説初心者は「一人称で書くな」というのが鉄則ですからね、激しい思い込みに堕し易いという意味で。

    世界観もそれなりにしっかり構築されているのでしょう、恐らく。
    ハルヒという存在の謎を巡るストーリーであるという点も分かりやすいですし。

    でも、私はほとんど引き込まれませんでした、ストーリーそのものに・・・・ファンの方すみません。
    途中で一回寝ちゃったくらいなんですよねぇ・・・・。

    ま、やっぱり私が対象年齢を大きく逸脱しているという点に問題があったんでしょうかね(涙)

    でもですね、さっき知ったのですが、場合によってはライトノベルに分類されることもあるという(私は、それらの作品がライトノベルになるとは思ってもみなかったのですが)、

    『銀河英雄伝説』 田中芳樹著 (現在は創元SF文庫から刊行中)
    『十二国記』シリーズ 小野不由美著 (講談社文庫)

    この二つのシリーズは、とっても面白いと思うのです。
    特に後者は、ヒロインがモトは女子高生というあたり、対象年齢が明らかに青少年層なんですが。(が、実は私自身が高校生のときから読んでるという点も申し添えておきます・・・Σ(゜д゜|||))

    うーん、ハルヒって続編の方が面白いのかなぁ・・・。
    だって、世間で騒がれてるなら、もうちょっと面白くてもいいと思うんですよね・・・(失礼発言?)
    もうちょっとリサーチしてみますか(笑)

  • 2007/07/23 02:56 | Comments(1) | TrackBack() |

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